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主にその日の庭の花の写真を掲載しています。
 
「梅花の歌三十二首」ならびに「帰田賦」

 

万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「題詞」の中に「于時初春令月 氣淑風和」(時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ)の語句があり、これを出典として「令和」としたと説明された。
なお、これは、「文選」(530年頃成立)巻十五にある後漢の張衡(ちょうこう)が詠んだ「帰田賦」の、「於是仲春令月 時和氣清」(これにおいて、仲春の令月、時は和し気は清む)を踏まえていた。

 

万葉集/第五巻
[歌番号]05/0815の前にある[題詞]
梅花歌卅二首 并序
天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 <促>膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇 古今何異哉 故而賦之于園梅 聊成短詠也

 

梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序
天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何ぞ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。

 

天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。

 

この一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、筆者は不明だが山上憶良の作かという。大伴旅人という説もある。
その内容には、天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたというもの。
このころ梅は大陸からもたらされたものとして非常に珍しい植物だった。当時、大宰府は外国との交流の窓口でもあったのでこのような国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもあった。この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での梅の華やかな様子を記し、ついで梅を取り巻く周囲の景色を描写し、一座の人々の和やかな様を伝えてる。
そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいる。

この後つづく三十二首の歌は、座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものとなっている。座の文学として後に連歌となる原型とも取れ、また当時の筑紫歌壇の華やかさもよく感じられる。

 

最初の一首(815)
武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎<岐>都々 多努之岐乎倍米[大貳紀卿]
正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽(たの)しきを経(へ)め【楽しき終へめ】大弐紀卿(だいにきのまへつきみ)
正月になって新春がやってきたならこのように梅の寿を招いて楽しき日を過ごそう。
一群の歌の冒頭の呪歌として寿を招く目出度い内容の一首となっている。

 

816
烏梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我覇能曽能尓 阿利己世奴加毛[少貳小野大夫]
梅の花今咲ける如(ごと)散り過ぎずわが家(へ)の園(その)にありこせぬかも 少弐小野大夫(せうにをののだいぶ)
梅の花は今咲いているように散り過ぎることなくわが家の庭にも咲いてほしいよ

 

817
烏梅能波奈 佐吉多流僧能々 阿遠也疑波 可豆良尓須倍久 奈利尓家良受夜[少貳粟田大夫]
梅の花咲きたる園の青柳(あをやぎ)は蘰(かづら)にすべく成りにけらずや 少弐粟田(あはたの)大夫
梅の花の咲いている庭には青柳もまた蘰にほどよくなっていることだ。

 

818
波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武[筑前守山上大夫]
春さればまづ咲く庭の梅の花独り見つつや春日暮(はるひくら)さむ 筑前守山上(つくしのみちのくのかみやまのうへの)大夫
春になるとまず最初に咲く梅の花をわたしひとりで見て春の日を過ごすなどどうして出来ようか…

 

819
余能奈可波 古飛斯宜志恵夜 加久之阿良婆 烏梅能波奈尓母 奈良麻之勿能怨[豊後守大伴大夫]
世の中は恋繁(しげ)しゑやかくしあらば梅の花にも成らましものを 豊後守大伴(とよのみちのしりのかみおほともの)大夫
世の中は恋に苦しむことが多いなあ。それならいっそ梅の花にでもなってしまいたいものです。

 

820
烏梅能波奈 伊麻佐可利奈理 意母布度知 加射之尓斯弖奈 伊麻佐可利奈理[筑後守葛井大夫]
梅の花今盛りなり思ふどち插頭(かざし)にしてな今盛りなり 筑後守葛井(つくしのみちのしりのかみふぢゐの)大夫
梅の花は今が盛りだ親しき人々よ頭髪に挿して飾ろう。今が盛りだ。

 

821
阿乎夜奈義 烏梅等能波奈乎 遠理可射之 能弥弖能々知波 知利奴得母與斯[笠沙弥]
青柳(あをやなぎ)梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし 笠沙弥(かさのさみ)
青柳を折り梅をかざして酒を飲んだその後はもう散ってしまっても満足だ。

 

822
和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母[主人]
わが園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも 主人(あるじ)大伴旅人(おほとものたびと)
わが家の庭に梅の花が散る。はるか遠い天より雪が流れて来るよ。

 

823
烏梅能波奈 知良久波伊豆久 志可須我尓 許能紀能夜麻尓 由企波布理都々[大監伴氏百代]
梅の花散(ち)らくは何処(いづく)しかすがにこの城(き)の山に雪は降りつつ 大監伴氏百代(ばんしのももよ)
梅の花が散っているのは何処でしょうか。それにしてもこの城の山には雪が降り続いていることです。

 

824
烏梅乃波奈 知良麻久怨之美 和我曽乃々 多氣乃波也之尓 <于>具比須奈久母[小監阿氏奥嶋]
梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林に鶯(うぐひす)鳴くも 少監阿氏奥島(せうげんあしのおきしま)
梅の花の散るのを惜しんでわが庭の竹の林に鶯が鳴いています。

 

825
烏梅能波奈 佐岐多流曽能々 阿遠夜疑遠 加豆良尓志都々 阿素i久良佐奈[小監土氏百村]
梅の花咲きたる庭の青柳を蘰(かづら)にしつつ遊び暮さな 少監土氏百村(せうげんとしのももむら)
梅の花が咲いている庭の青柳を蘰にして一日を遊び暮らそう。

 

826
有知奈i久 波流能也奈宜等 和我夜度能 烏梅能波奈等遠 伊可尓可和可武[大典史氏大原]
うち靡(なび)く春の柳とわが宿(やど)の梅の花とを如何(いか)にか分(わ)かむ 大典史氏(だいてんししの)大原
うち靡く春の柳とわが屋の梅の花と、どちらが優れているかどのように判断しよう。

 

827
波流佐礼婆 許奴礼我久利弖 宇具比須曽 奈岐弖伊奴奈流 烏梅我志豆延尓[小典山氏若麻呂]
春されば木末隠(こぬれがく)れて鶯そ鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづえ)に 少典山氏(さんしの)若麿
春になれば梢に隠れて鶯が鳴き移るようです。梅の下枝のほうに…

 

828
比等期等尓 乎理加射之都々 阿蘇倍等母 伊夜米豆良之岐 烏梅能波奈加母[大判事<丹>氏麻呂]
人毎(ひとごと)に折り插頭(かざ)しつつ遊べどもいや愛(め)づらしき梅の花かも 大判事丹氏麿(だいはんじたんしのまろ)
皆それぞれに折りかざしつつ遊ぶけれど、なお愛すべき梅の花よ。

 

829
烏梅能波奈 佐企弖知理奈波 佐久良<婆那> 都伎弖佐久倍久 奈利尓弖阿良受也[藥師張氏福子]
梅の花咲きて散りなば桜花継て咲くべくなりにてあらず 薬師張氏福子(くすりしちやうしのふくし)
梅の花が咲いて散ってしまったなら桜の花が継いで咲きそうになっているではないか

 

830
萬世尓 得之波岐布得母 烏梅能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多留倍子[筑前介佐氏子首]
万代(よるづよ)に年は来経(きふ)とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし 筑前介佐氏子首(すけさしのこおびと)
万年の年を経るとも梅の花は絶えることなく咲き続けるがよい。

 

831
波流奈例婆 宇倍母佐枳多流 烏梅能波奈 岐美乎於母布得 用伊母祢奈久尓[壹岐守板氏安麻呂]
春なれば宜(うべ)も咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝(ね)なくに 壱岐守板氏安麿(いきのかみはんしやすまろ)
春になってなるほどよく咲いた梅の花よ。君を思うと夜も眠れないよ。

 

832
烏梅能波奈 乎利弖加射世留 母呂比得波 家布能阿比太波 多努斯久阿流倍斯[神司荒氏稲布]
梅の花折りてかざせる諸人(もろびと)は今日(けふ)の間(あひだ)は楽(たの)しくあるべし 神司荒氏稲布(かむづかさこうしのいなしき)
梅の花を折りかざして遊ぶ人々は今日一日が楽しいことでしょう。

 

833
得志能波尓 波流能伎多良婆 可久斯己曽 烏梅乎加射之弖 多<努>志久能麻米[大令史野氏宿奈麻呂]
毎年(としのは)に春の来(きた)らばかくしこそ梅を插頭(かざ)して楽しく飲まめ 大令史野氏宿奈麿(だいりやうしやしのすくなまろ)
年ごとに春がめぐり来ればこのように梅をかざして楽しく酒を飲もう。

 

834
烏梅能波奈 伊麻佐加利奈利 毛々等利能 己恵能古保志枳 波流岐多流良斯[小令史田氏肥人]
梅の花今盛りなり百鳥(ももどり)の声の恋(こほ)しき春来たるらし 少令史田氏肥人(せうりやうしでんしのうまひと)
梅の花は今が盛りだ鳥々たちの声も恋しい春がやって来るらしい。

 

835
波流佐良婆 阿波武等母比之 烏梅能波奈 家布能阿素○(田+比)尓 阿比美都流可母[藥師高氏義通]
春さらば逢(あ)はむと思ひし梅の花今日(けふ)の遊びにあひ見つるかも 薬師高氏義通(かうしのぎつう)
春になったなら逢おうと思っていた梅の花に今日の宴の席で逢えたことだなあ。

 

836
烏梅能波奈 多乎利加射志弖 阿蘇倍等母 阿岐太良奴比波 家布尓志阿利家利[陰陽師礒氏法麻呂]
梅の花手折(たを)り插頭(かざ)して遊べども飽(あ)き足(た)らぬ日は今日にしありけり 陰陽師礒氏法麿(おんやうしぎしののりまろ)
梅の花を手折りかざして遊んでいても飽きることない日は今日なのだなあ。

 

837
波流能努尓 奈久夜汗隅比須 奈都氣牟得 和何弊能曽能尓 汗米何波奈佐久 算師志氏大道
春の野に鳴くや鶯懐(なつ)けむとわが家(へ)の園に梅が花咲く 算師志氏大道(さんしししのおほみち)
春の野に鳴くよ鶯。その鶯を引き寄せようと我が家の庭に梅が花を咲かせている。

 

838
烏梅能波奈 知利麻我比多流 乎加肥尓波 宇具比須奈久母 波流加多麻氣弖[大隅目榎氏鉢麻呂]
梅の花散り乱(まが)ひたる岡傍(び)には鶯鳴くも春かた設(ま)けて 大隅目榎氏鉢麿(おほすみのさくわんかしのはちまろ)
梅の花の散り乱れる岡には鶯が鳴いているよ。春の気配濃く。

 

839
波流能努尓 紀理多知和多利 布流由岐得 比得能美流麻提 烏梅能波奈知流[筑前目田氏真上]
春の野に霧(き)り立ち渡り降る雪と人の見るまで梅の花散る 筑前目田氏真神(でんしのまかみ)
春の野に一面に立ち渡って降る雪かと人が思うほどに梅の花が散っているなあ。

 

840
波流楊那宜 可豆良尓乎利志 烏梅能波奈 多礼可有可倍志 佐加豆岐能倍尓[壹岐目村氏彼方]
春柳蘰(かづら)に折りし梅の花誰(たれ)か浮べし酒杯(さかづき)の上(へ)に 壱岐(いき)目村氏彼方(そんしのをちかた)
春柳を蘰にしようと折ったことだ。梅の花も誰かが浮かべているよ。酒杯の上に。

 

841
于遇比須能 於登企久奈倍尓 烏梅能波奈 和企弊能曽能尓 佐伎弖知流美由[對馬目高氏老]
鶯の声(おと)聞くなへに梅の花吾家(わぎへ)の園に咲きて散る見ゆ 対馬(つしまの)目高氏老(かうしのおゆ)
鶯の声を聞くのにつれて、梅の花が我が家の庭に咲いては散ってゆくのが見えるよ。

 

842
和我夜度能 烏梅能之豆延尓 阿蘇i都々 宇具比須奈久毛 知良麻久乎之美[薩摩目高氏海人]
わが宿の梅の下枝(しつえ)に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ 薩摩(さつまの)目高氏海人(あまひと)
わが家の梅の下枝に遊びながら鶯が鳴いているよ。梅の散るのを惜しんで。

 

843
宇梅能波奈 乎理加射之都々 毛呂比登能 阿蘇夫遠美礼婆 弥夜古之叙毛布[土師氏御<道>]
梅の花折り插頭(かざ)しつつ諸人(もろひと)の遊ぶを見れば都しぞ思(も)ふ 土師氏御道(はにししのみみち)
梅の花を折りかざしながら人々の遊ぶのを見ていると都のことが思い出されるよ。

 

844
伊母我陛邇 由岐可母不流登 弥流麻提尓 許々陀母麻我不 烏梅能波奈可毛[小野氏國堅]
妹(いも)が家(へ)に雪かも降ると見るまでにここだも乱(まが)ふ梅の花かも 小野氏国堅(くにかた)
恋しい人の家に雪が降っているのかと見えるほどに散り乱れる梅の花だなあ。

 

845
宇具比須能 麻知迦弖尓勢斯 宇米我波奈 知良須阿利許曽 意母布故我多米[筑前拯門氏石足]
鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため 筑前掾門氏石足(じやうもんしのいはたり)
鶯が開花を待ちわびていた梅の花は散らずにあってほしいものだ。恋い慕う子らのため。

 

846
可須美多都 那我岐波流卑乎 可謝勢例杼 伊野那都可子岐 烏梅能波那可毛[小野氏淡理]
霞立つ長き春日(はるひ)を插頭(かざ)せれどいや懐(なつか)しき梅の花かも 小野氏淡理(たもり)
霞の立つ春の日を一日かざしつづけてもなお恋しい梅の花だなあ。

 

宴の楽しさが伝わってくる32首である。
読み・解は、「万葉集入門」(http://manyou.plabot.michikusa.jp/)による。

 


また、「于時初春令月 氣淑風和」の元になっている文選の「歸田賦」は、次の詩。

 

 「歸田賦」張衡(78−139 東漢)
遊都邑以永久,無明略以佐時。
徒臨川以羨魚,俟河清乎未期。
感蔡子之慷慨,從唐生以決疑。
諒天道之微昧,追漁父以同嬉。
超埃塵以遐逝,與世事乎長辭。
於是仲春令月,時和氣清;原隰鬱茂,百草滋榮。
王雎鼓翼,倉庚哀鳴;交頸頡頏,關關嚶嚶。於焉逍遙,聊以娛情。
爾乃龍吟方澤,虎嘯山丘。
仰飛纖繳,俯釣長流。
觸矢而斃,貪餌吞鉤。
落雲間之逸禽,懸淵沉之鯊鰡。
於時曜靈俄景,繼以望舒。
極般遊之至樂,雖日夕而忘劬。
感老氏之遺誡,將回駕乎蓬廬。
彈五絃之妙指,詠周、孔之圖書。
揮翰墨以奮藻,陳三皇之軌模。
苟縱心於物外,安知榮辱之所如。

 

都邑に遊びて永く久しきも 明略の以って時を佐たすくる無し。
徒らにらに川に臨みて魚を羨い、河の清むを未だ期せられざるに俟つ。
蔡子の慷慨にして 唐生に従いて疑いを決せるに感ず。
諒に天道の微昧なる、漁父を追いて嬉しみを同じうせん。
埃塵を超えて遐(はるか)に逝き世事と長く辞さん。
是に於いて仲春の令月、時は和し気は清めり。原隰し鬱茂し、百草滋栄す。
王雎(みさご)翼を鼓ち、倉庚(うぐいす)哀しく鳴き、
頸を交え頡頏(けっこう)し、關關(かんかん)嚶嚶(おうおう)たり。
於焉(いざ)や逍遙し,聊以(しばらく)は情を娛しまん。
爾乃(しかして)龍の澤に方(むか)ひて吟じ,虎の山丘に嘯(うそぶ)き、
仰ぎて纖繳を飛ばし,俯して長流に釣るや、矢に觸れて斃(たお)れ,餌を貪して鉤を吞みて、
雲間の逸禽(かり)を落とし,淵沉の鯊鰡(はぜぼら)を懸くる。
時に曜靈俄景し、繼(つづき)て望舒なり。
般遊の至樂を極め、日夕に忘劬し難し。
老氏の遺誡を感じ、將に駕を蓬廬に回らす。
五絃を彈く妙指に、周・孔の圖書を詠ひ、
翰墨を揮ひて奮藻し、三皇の軌模を陳ぶ。
苟(いやしく)も心の物外に縱せば、安んぞ榮辱の所如を知らん。

 

  『田園に帰ろう』 張衡
『都住まいも久しくなるが、世をよくする功績なく、網も持たず、川岸で魚を得たいと望むばかり。
黄河の澄むよい時世を待つも、何時のことか計られぬ。
その昔、思いあぐねた蔡沢は、唐挙の占いに賭けて、迷いの霧をはらしたが、まこと人の運命は見通し難く 漁父をさがし求めて楽しみをともに分ちたいものだ。
いざ、この世の塵芥から抜け出て遥かな彼方に去り、生臭い俗事との縁を永遠に絶とう。

 

おりしも今は 春も半ばのめでたい月よ。時節はなごやか 大気は澄んで岡も湿地も鬱そうと 百草は繁り花さく。
雎鳩(みさご)は羽ばたき、倉庚(うぐいす)は悲しげに鳴き、頸すりよせて、上に下にと飛びかけり、仲睦まじく伴を求めて呼び交わす。
いざやこの地に遊び歩き、しばらく情を楽しませよう。

そうして私は、大きな沢で龍の如く吟じ 山や丘で虎のように嘯き、仰いで細い繳(いぐるみ)を放ち、俯し見ては長い流れに釣り糸を垂らすのだ。
鳥は矢にあたって斃れ、魚は餌を貪って鉤(はり)を呑む。
かくて雲間を飛ぶ鴻雁(がん)も射落され、深い淵にひそむ鯊鰡(はぜぼら)も釣りあげられる。

いつしか日は西に傾き、月がさし昇る。
心ゆくまで遊び楽しみ、暮れがたになっても疲れを覚えない。
しかし、狩を戒めた老子の遺訓に気づき、車駕を草蘆(いおり)に帰すことにする。
すぐれた五絃(こと)の調べを奏で、周公・孔子の書を口吟み、筆走らせては詩文を綴り、時には三皇の功業を書きしるす。
執らわれぬ境に心を解き放つならば、此の世の栄誉(ほまれ)も恥辱(はじ)も問うところではない。』


この詩は要するに「最近の政治は腐り切ってて嫌気さしたから田舎に帰って畑耕して暮らす」というもので、陶淵明の「帰去来の辞」へと繋がる知識人の厭世詩の系譜に入る。
張衡(78−139 東漢)は、中国の官僚。天文学者で数学者や地理学者、発明家でもあった。世界最初の水力渾天儀や水時計、地動儀と呼ばれる地震感知器なども発明したといわれる。
後漢(東漢)の第6代安帝に召されるも政治の腐敗を目の当たりにしていた。安帝は宦官の専横を許して後漢王朝衰退を招いた暗愚といわれる。この「安帝」に仕えるのを嫌って田舎に帰る役人の独白であった。
宦官が権力を私物化すると、それを批判し抵抗する知識人たちの世論が高まった。のち、これを清議と呼ぶ。彼らは自らを清流、宦官のことを濁流と呼んで非難し、宦官側は清議派を党人と呼んで弾圧した。

 

我が庵での生活にも通じ、なかなか趣深い詩であった。
万葉・文選のこれらを踏まえているとすると、「令和」はなかなかいい元号である。

 

  篁(たかむら)を染めて春の日しづみけり 日野草城

 

 

【2019.04.02 Tuesday 17:07】 author : 杉篁庵主人
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立原道造の生誕100年を記念した企画展
2014年は、24歳の若さで夭逝した詩人・立原道造の生誕100年にあたる。誕生日は1914年(大正3年)7月30日。
これを記念して、長野県の軽井沢タリアセン内の3会場(「軽井沢高原文庫」「深沢紅子野の花美術館」「堀辰雄1412山荘」)で、2014年4月24日(木)から11月3日(月)までの間に、三つの「立原道造展」が開催される。

その第一弾として、軽井沢高原文庫で「生誕100年 立原道造と軽井沢」展が開かれている。会期は、4月24日(木)〜7月14日(月)。
立原の詩稿やパステル画、書簡、著作、初出誌をはじめ、設計図や模型など、建築家としても活躍した足跡もうかがい知れる資料約200点が展示されている。
そのパンフはこちら
今日帰り道に寄ってみた。




また、
北軽井沢の「麦小舎」といカフェでは、「白い花の季節の朗読会− 小舎で聴く立原道造の詩 −」という企画も24日(土)にはあった。


ここで読む、立原の詩集はいかにもという感じがする。
【2014.05.25 Sunday 22:16】 author : 杉篁庵主人
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白き秋風




今朝は窓からの風が快い。

 厨窓開ければ色なき風に会ふ  阿部喜恵子
 丸窓に色なき風の通り抜け  田中康委子

「色なき風」の季語が浮かんだが、同時に「石山の石より白し秋の風 松尾芭蕉」の句も浮かんだ。
風を白く感ずるのは秋かと思い、風の色を「白」と詠う句をいくつかみる。
すると、夏から冬までの句があった。

夏・甘露忌に白き風呼ぶさるすべり 木内彰志
夏・病院は緑陰ナースは白き風 高澤良一
夏・白き風走る蓮田の果ては海 工藤芳久
夏・香に顕ちて風蘭白き風となる 穂坂日出子
夏・ちんぐるま群れ咲き白き風となる 大高 時子
秋・物干に白き風あり法師蝉 乙津喜美
秋・蕎麦咲くや鼻をまづさす風白し 石川桂郎
冬・千鳥なく三保の松原風白し  正岡子規

ところで似た語の「白南風(しらはえ)」は晩夏の季語である。
夏になると、日本列島には、太平洋高気圧から南東の季節風が吹き寄せるようになる。冬の北風に対し、夏の南風(みなみかぜ・みなみ・はえ)と呼んできた。この南風のうち、梅雨時に吹いて黒雲を運ぶ湿気の多い風を黒南風(くろはえ)と呼び、梅雨明に吹く雨雲を一掃するような爽やかな風を白南風(しろはえ)と呼んでいる。
「白き風」の句に夏の句が多いのは「白南風」の印象からだろうか。

秋の風はこれではないが、その涼しさからやはり「白」の印象が強い。
これを「白風」ともいうようだが、「色なき風」としたのが「俳諧」なのであろう。
調べてみると、「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな 紀友則」によるといわれている。また、もとは「素風」(そふう)という中国語を大和言葉にしたものともいわれる。素風も秋の季語で歳時記にあるが、古代の陰陽五行思想から四季を「青春、朱夏、白秋、玄冬」とし、そこから秋を「白秋」=「素秋」といい、秋風を「素風」といったという。

  みちのくの素風に晒す琴の木地  松本喜久江

何れにせよ今朝の窓からの風は「白き秋風」であったかと思う。

 蝉殻の残れる窓に風白し 
 秋草をひそと撫ぜゆく風白し

【2012.08.15 Wednesday 11:43】 author : 杉篁庵主人
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鴎外「舞姫」のモデルの「エリス」に新説




今度出てきたモデルは21才ということで年齢的には一番無理がない。六草さんは主人公の2人が出会った場所として、草稿での描写と酷似するベルリンのガルニゾン教会を発見し、そこから女性の記録にたどり着いたという。「舞姫」の舞台とみられる教会が見つかったというのも新説のようで、まだまだ手繰られることは多いようです。

朝日新聞 2011年3月10日5時13分
鴎外「舞姫」のモデルは彼女? 洗礼記録発見、経歴一致
 文豪・森鴎外の代表作「舞姫」のヒロイン・エリスの実像に迫る資料を、ベルリン在住のライター六草(ろくそう)いちかさん(48)がドイツの教会公文書館で発見した。鴎外を追って来日したエリーゼ・ヴィーゲルトと思われる女性の洗礼や堅信礼の記録などで、名前以外にも「舞姫」の記述と一致する点が多い。エリスのモデル研究を次の段階に進める資料だ。
 これまでのエリスをめぐる研究では、当時の英字紙に載った乗船名簿から、来日した女性の名前がエリーゼ・ヴィーゲルトであったことが分かっていた。研究者がドイツなどでエリーゼ・ヴィーゲルト捜しを続けてきたが、現地の記録で存在を確認できず、年上のユダヤ人「エリーゼ・ワイゲルト」説や、来日時15歳の「アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト」説などが出されていた。
 六草さんが発見した洗礼記録は、シュチェチン(現・ポーランド)の聖マリア教会の教会簿として保存されていた「エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト」という女性のもの。名前が乗船名簿と一致するほか、1866年9月15日に母の故郷であるシュチェチンで生まれたとあり、鴎外を追って来日した時は21歳だったことになる。
 「舞姫」には、主人公の帰国を前に、エリスの母が「ステッチン(=シュチェチン)わたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せん」と言ったという記述がある。
 また、住所帳からは1898年から1904年まで、エリーゼ・ヴィーゲルトが帽子製作者としてベルリンに住んでいたことも確認された。鴎外の妹・小金井喜美子は鴎外から聞いたとして、エリーゼが「帰って帽子会社の意匠部に勤める約束をして来たといって居た」と記している
 資料の発見の経緯を六草さんは「鴎外の恋 舞姫エリスの真実」(講談社)にまとめた。六草さんはこれまで鴎外研究をしたことはなく、半年で発見に至った。「これまで教会記録を調べた研究者はいませんでした。エリーゼが垂らした細い糸をたぐり続けたことで、この資料に出会えた気がします」と振り返った。
 森鴎外記念会会長の山崎一穎(かずひで)跡見学園理事長は「乗船名簿に並ぶ一級資料の発見です。これまで多くの研究者がエリーゼ・ヴィーゲルトの身元捜しをしてきたが、これほど多くの条件がそろう女性はいなかった。さらなる研究につながる突破口になる可能性がある」と評価した。(加藤修)


去年秋、モデルについて記した記事、「「舞姫」のモデルと鴎外の慙愧と 2010.11.19 Friday」と比較してみると面白い。 

【2011.03.10 Thursday 11:24】 author : 杉篁庵主人
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桃の節句に因んで




上巳の節句は、もともとは野山に出て薬草を摘んでその薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願う行事(中国では河で禊ぎを行う「上巳の祓(じょうしのはらえ))があり、この行事が、災厄を代わりに引き受けさせた紙人形を川に流す「流し雛」へと、さらに宮中の紙の着せかえ人形で遊ぶ「ひいな遊び」とが融合して雛祭りの桃の節句になったようです。

源氏物語には、このひいな遊びが「紅葉賀」巻に描かれています。
男君は、朝拝に参りたまふとて、さしのぞきたまへり。
「今日よりは、大人しくなりたまへりや」とて、うち笑みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。
いつしか、雛をし据ゑて、そそきゐたまへる。三尺の御厨子一具に、品々しつらひ据ゑて、また小さき屋ども作り集めて、たてまつりたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。
[第四段 新年を迎える]
 男君は、朝拝に参内なさろうとして、お立ち寄りになった。
 「今日からは大人らしくなられましたか」
 と言って微笑んでいらっしゃる、とても素晴らしく魅力的である。早くも、お人形を並べ立てて、忙しくしていらっしゃる。三尺の御厨子一具と、お道具を色々と並べて、他に小さい御殿をたくさん作って、差し上げなさっていたのを、辺りいっぱいに広げて遊んでいらっしゃる。
源氏と十歳になった若紫の新年の様子です。「お人形の中の源氏の君を着飾らせて、内裏に参内させる真似などなさ」って遊んでいる様子が描かれています。

「桃の節句」とも言われるが、この時季、「桃花笑春風(とうかしゅんぷうにえむ) 」という軸が茶席に掛けられる。
これは、崔護(さいご)の七言絶句から採った句といわれている。

   「人面桃花」 崔護
 去年今日此門中、
 人面桃花相映紅。
 人面不知何處去、
 桃花依舊笑春風。
   去年の今日 此の門の中、
   人面 桃花あい映じて紅なり。
   人面 いずれの処ところに去るや知らず、
   桃花 旧に依りて 春風に笑む。

去年の今日此の門の中であなたとお逢いしました。
あなたの顔の紅の色と桃の花の紅の色が互いに照り映えておりました。
今門は閉ざされていて、あなたがどこに行ってしまわれたのかは知れないまま、
ただ桃の花だけが去年と同じ様に春の風に揺られて微笑んでいます。


桃といえば、王維(おうい)の六言の絶句が思い出される。

  田園楽(でんえんらく) 王維
 桃紅復含宿雨、 柳緑更帯春煙。  
 花落家童未掃、 鶯啼山客猶眠。  
   桃は紅にして 復(また)宿雨(しゅくう)を含み、
   柳は緑にして 更に春煙(しゅんえん)を帯ぶ。
   花落ちて 家僮(かどう)未だ掃はず、
   鶯啼いて 山客(さんかく)猶ほ眠る。

桃の花はくれないに咲き、ゆうべの雨をふくんでいっそうあざやかな色を見せ、
柳の芽はみどりに萌えいで、春のかすみを帯びてますますぼんやりとけだるい風情。
花びらが庭先に散りしいていても、召し使いはまだ掃除もしない。
うぐいすがしきりにさえずっているなか、山荘住まいの私といえばまだ夢うつつである。


【2011.03.02 Wednesday 21:08】 author : 杉篁庵主人
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自作の俳句や和歌の発表の場




ネット上に自分の作品を投稿するサイトは色々あるようですが、今日は私の使っているサイトの紹介です。

先ずは、
livedoor ハイクブログ(ライブドア 俳句ブログ)」。
このサイトは、縦書きの俳句作成ツールです。詠んだ「俳句」を、自分のホームページやプログに貼り付けることができるので、これをもう一つのブログ「今日の俳句」に貼っています。また、登録すると自分の書くスペースがもらえ、毎日「俳句・川柳・短歌・都々逸(30文字以内)」の「歌」を書き続けられるツールでもあり、更には詠みながらユーザー同士でコミュニケーションすることもできるのでした。このコメントでも人のつながりが生まれるようです。
これは昨年の11月に始めたもの。

また、「うたのわ」という、ネットで和歌(短歌)を詠むサイトがあります。
ネット上で和歌(短歌)を詠み、それを投稿&共有して交流を楽しむサイトです。
和歌に限らず俳句でも、単にネットを通じて自分が作ったものを投稿し、評価を付け合うサイトは今までもありましたが、この[うたのわ]は、歌人(会員登録した人)同士の交流評価に特徴があります。
会員登録した「歌人」は、自分専用のページを持ち、歌を詠む時の名前や、プロフィールを設定します。詠んだ歌は保存され、他の人から「拍手」などの評価を受けることができます。歴史的仮名遣いに変換する機能もあります。それぞれの最初のページは縦書きなのですが、なぜか次ページ以降は横書き。
こちらは数日前から始めてみました。

共にメールアドレスで会員登録して無料で利用できます。共に縦書き表示になります。
それぞれにその特徴をつかめば楽しめそうなサイトです。

「うたのわ」の歌人を辿っていて「題詠blog2011」というイベント会場にたどり着きました。
題詠百首を詠みあうブログで、100人を超える人が詠んでいます。
こちらも今日から参加してみました。そのために又新にブログを作りました。


もうひとつ、私は使っていませんが作った俳句や短歌をブログに貼り付けるパーツ作成サイトには「川柳 短歌 俳句 を楽しむ無料サイト 575fun.com」というのもあります。

【2011.02.18 Friday 09:41】 author : 杉篁庵主人
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冬土用入り・阪神淡路大震災記念日

 

兵庫県南部を中心にM7.2の地震があったのは1995年(平成7年)のこの日。はや16年。

   何事ぞ寒暁の地震(ない)の太ト地鳴り 渡辺夏紀
   縦揺れや五時四六分の時計飛ぶ 渡辺夏紀


土用は、鰻を食べる夏の土用で知られるが、季節の変わり目毎に年に四回ある。二十四節気の立春、立夏、立秋、立冬の前18日、または19日間が土用となる。
で、今日が冬土用の入りとなる。寒土用ともいう。立春前の寒さの最も厳しい日々である。
また土用は、季節の変わり目で農作業などの大仕事をすると体調が崩れやすいので控え、土公神の祟りを恐れて土を動かす作業(柱立て、基礎工事、壁塗り、井戸掘りなど)は忌むという。

   鉄瓶をたぎらす快楽寒土用 加藤征子
   寒土用科布のれんに木の香立つ 石田章子

 

 

【2011.01.17 Monday 12:02】 author : 杉篁庵主人
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荷風・露伴の文学碑建立



 
京成八幡駅から山の手へ向い、街道からは奥まった緑の多い静かな住宅街の一角に白幡天神社があるが、その白幡天神社の東側鳥居を潜った左に荷風の碑が建立された。
その碑は、中央の荷風の自書名の右に
「松しける生垣つゞき花かをる 菅野はげにもうつくしき里」
と記され、
左に「断腸亭日乗」の一節が彫られている。
「白幡天神祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む 帰途り緑陰の石垣道を歩みつゝユーゴーの詩集を読む 砂道平にして人来らす 唯鳥語の欣々たるを聞くのみ 「断腸亭日乗」」。

裏には、「文豪の永井荷風は昭和二十一年から十二年間市川市菅野の地に晩年を過ごした。日々の記録を芸術に高めた大作「断腸亭日乗」には 荷風が白幡天神社のまわりの静かな環境のなかで読書に耽り ひとり暮らしの楽しさをかみしめている記述がある」と記されている。
短歌は、昭和二十一年四月二十二日、日記は同じ年の五月十一日に記されたもの。

神殿には、勝海舟が明治初めに揮毫した「白幡神社」の社額が飾られてる。

露伴の娘であり、その晩年を支えた幸田文は、作品「父」で、樹齢二百年余りの木々に囲まれて広々とした白幡天神社の境内の様子を、
「白幡神社の広場の入口に自動車がとまっている。いなかのお社さまはさすがに、ひろびろと境内を取って、樹齢二百年余りとおぼしい太い槙が何本も枝を張っていた。・中略・さあっと風が来、ぱらぱらと榎の枝から葉が離れ散った。」(幸田文『菅野の記』)と描いている。

白幡天神のHPはこちら

 嬉しげな囀りを聞く木陰かな


読売新聞 2010年11月29日 
ご近所さんだった露伴と荷風、足跡伝える文学碑…千葉・市川
境内に設置された永井荷風の文学碑 晩年を千葉県市川市で過ごした文豪、幸田露伴(1867〜1947年)と永井荷風(1879〜1959年)の文学碑が、同市菅野の白幡天神社境内に建てられ、28日、市民にお披露目された。
 露伴と荷風は終戦直後の1946年、偶然だが、いずれも同神社近くに移住。面識はなかったが、日記などから互いの存在は知っていたという。
 文学碑は、神社の氏子役員が「2人の住んだ足跡を伝えよう」と発案。露伴の碑は境内南側、荷風の碑は東側に建てられ、露伴の碑文は「幸田露伴文学之碑」、荷風の碑文には菅野の情景を詠んだ短歌と日記「断腸亭日乗」の一節を刻んでいる。
 鈴木啓輔宮司は「直接話したことのない2人だが、せめて境内で一緒になり、散策者を喜ばせてほしい」とあいさつ。「荷風のいた街」「幸田家のしつけ」などの著書がある橋本敏男・元読売新聞記者が、荷風について講演を行った。
(2010年11月29日  読売新聞)

毎日新聞 2010年12月6日 地方版
幸田露伴・永井荷風:市川・白幡天神社に文学碑を建立 氏子ら資金を拠出 /千葉
 ◇2人が住んだ歴史、後世に
 市川市菅野地区にかつて住んでいた小説家・幸田露伴(1867〜1947)と永井荷風(1879〜1959)を顕彰しようと、「白幡天神社」(同市菅野1)に二つの文学碑が建立された。文豪2人が同じ時期を偶然にも過ごした場所として光を当てることになり、文学ファンの関心を呼びそうだ。
 露伴は1946年から1年半、荷風は46年から13年間、市内に住んだ。しかし、お互いの存在は知っていたとみられるものの、交流はなかったとされる。荷風が記した日記「断腸亭日乗」には、神社をたびたび訪れたことや、露伴が亡くなった際には外で見送った記述もある。
 鈴木啓輔宮司(65)によると、「露伴はどこに住んでいたのか」など、文学ファンに尋ねられることがしばしばあるという。鈴木宮司自身、神社で休む晩年の荷風の姿をたびたび目にしており、その様子を説明することもあるそうだ。ただ、周辺には特に文学碑などもなく、氏子たちから昨年末、「2人の文豪が住んだ歴史を後世に伝えよう」との声があがり、資金を出し合って今年8月に完成させた。また、先月28日には同神社で氏子らがお披露目の式を開き、文芸評論家の樋口覚さんが、「永井荷風・幸田露伴 その思想と居場所について」と題して講演している。
 露伴の碑は境内南側に設けられ、背面に略歴がまとめられた。荷風の碑は境内東側に設置。菅野を読んだ短歌と日記の一部などが記された。鈴木宮司は「末永く愛される文学碑となればうれしい」と話している。【山縣章子】


 

【2010.12.13 Monday 11:08】 author : 杉篁庵主人
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「舞姫」のモデルと鴎外の慙愧と



今夜、BS-hiで「舞姫」誕生120周年企画番組が放送された。

ハイビジョン特集 「舞姫」誕生120周年企画、「鷗外の恋人〜百二十年後の真実〜」である。
まず、番組案内から内容紹介。
■制作者から
今年は、森鴎外の処女作「舞姫」が発表されて120 年に当たります。この小説は、O(鴎外)のドイツ留学時代 の体験を基にして書かれ、登場する恋人エリスには 実在するモデルの女性がいると言われているのです が、彼は生涯ドイツ時代の恋人について、語ること も書き残すこともしませんでした。そのため、その 恋人についてこれまで多くの研究・調査がなされ、 さまざまな議論がなされてきましたが、その実像に ついての決定打がないまま今日に到っています。 今回この番組では、鴎外が恋人と運命的な出会い をしたドイツをはじめ、「舞姫」が執筆された東 京・上野にある旧居や、生誕の地・島根県津和野町 でロケを敢行し、改めて「鴎外の恋人」の実像に迫 り、鴎外の文学や生涯に新たな光を当てていきま す。ナビゲーターは、みずみずしい感性を持った、 モデルでありエッセイストでもある19歳の華恵さん が務めます。 企画・構成・演出の今野さんは、1978年に鴎外の 生涯を描いた3時間のテレビドラマ大作「獅子のご とく」(TBS)を演出して以来、折に触れ、鴎外にま つわる膨大な文献や資料を紐解き、独自に「鴎外の 恋人」に関して調べてこられました。30年後の今 年、それが番組として実を結んだのです。その着眼 点、探究心など本当に素晴らしく、今更ながらに今 野さんの凄さに感じ入っているところです。 また、この放送に併せて、今野さん執筆の同タイ トル書籍がNHK出版より刊行されます。どうぞご期待 ください!(藤村恵子)

これに関連する新聞記事より。
読売新聞
 テレビ番組制作会社「テレビマンユニオン」のディレクター・今野勉さん(74)が、森鴎外の遺品の型板などから代表作「舞姫」のヒロイン・エリスのモデルとなった女性を特定する新たな証拠を確認したことが分かった。
 今野さんは鴎外の生涯を描いたドラマ「獅子のごとく」(1978年)の演出を手がけ、エリスのモデルに関心を持った。当時、この女性から鴎外に贈られたと見られる刺しゅう用の型板の上方に「W」「B」の文字を発見し、今野さんは「エリスはW・Bのイニシャルを持つ女性ではないか」と推測していた。
 2000年、不動産登記簿などから、エリスのモデルが「アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト」ではないかとする説が現れたのを踏まえ、再度、型板を検証したところ、型板の上方に「W」「B」のほかに「A」「L」の文字も確認することが出来たという。
(2010年11月11日03時08分  読売新聞)

森鴎外は、明治14年、19歳で東京大学医学部を卒業後、直ちに東京陸軍病院の軍医に任命され、明治17年、彼は軍陣衛生研究のためにドイツに留学し、明治21年に帰国する。ドイツ留学中の鴎外の恋人「エリス」が彼を追って来日したが、鴎外は彼女に直接会うことなく、鴎外の兄弟らが彼女に会って説得し、彼女を帰国させたといわれている。
このエリスのモデルは、ヴィーゲルトとルイーゼの間に生まれた「アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト」といい、番組はその来日経過とその後の彼女が75才でなくなるまでを追っていた。次女の杏奴と三男の類の名に隠されている鴎外の思いも明らかにされた。
この女性は1872年12月16日生まれ、当時15歳の美少女という。
鴎外の帰国4日後の1888年9月12日に船で横浜に着き、鴎外と連れ添うことを反対されて1カ月後に帰国したとされる。当時の横浜の英字紙に載った同日の乗船名簿に「ミス・エリーゼ・ヴィーゲルト」の名があることが1981年に明らかになっていたが、今野さんは「彼女の父母は宗派の違いを乗り越えて結婚した。母は若死にしたが、15歳の若さで日本に行くという娘を父は後押ししたのだろう。エリーゼという名は鴎外とルイーゼの間で決めた愛称だったのでは」と推察する。
家族を説得できると思って彼女を来日させた鴎外が、母をついに説得できず、この女性を一ヵ月後ドイツに帰国させることになる。家族のために「エリス」との愛を貫けずに挫折し、屈辱の中に生きた鴎外の悲しみが伝わった。

次に揚げるのは番組の中で紹介された「エリス」を偲ぶ詩。

   「扣釦(ぼたん)」   森鴎外      
 南山の たたかいの日に
 袖口の こがねのぼたん
 ひとつおとしつ
 その扣釦(ぼたん)惜し
    べるりんの 都大路の
    ぱっさあじゅ 電灯あおき
    店にて買いぬ
    はたとせまえに
 えぽれっと かがやきし友
 こがね髪 ゆらぎし少女(おとめ)
 はや老いにけん
 死にもやしけん
    はたとせの 身のうきしずみ
    よろこびも かなしびも知る
    袖のぼたんよ
    かたはとなりぬ
 ますらおの 玉と砕けし
 ももちたり それも惜しけど
 こも惜し扣釦
 身に添ふ扣釦

鴎外の長男・於菟(1890―1967年)は、この詩に関して次のように書いてる。
 この「黄金髪ゆらぎし少女」が「舞姫」のエリスで父にとっては永遠の恋人ではなかったかと思う。エリスは太田豊太郎との間に子を儲け仲を裂かれて気が狂ったのであるが、父にもその青年士官としての独逸留学時代にある期間親しくした婦人があった。私が幼時祖母からきいた所によるとその婦人が父の帰朝後間もなく後を慕って横浜まで来た。これはその当時貧しい一家を興すすべての望みを父にかけていた祖父母、そして折角役について昇進の階を上り初めようとする父に対しての上司の御覚えばかりを気にしていた老人等には非常な事件であった。親孝行な父を総掛かりで説き伏せて父を女に遇わせず代わりに父の弟篤次郎と親戚の某博士とを横浜港外の船にやり、旅費を与えて故国に帰らせた。
 一生を通じて女性に対して恬淡に見えた父が胸中忘れかねていたのはこの人ではなかったか。私ははからず父から聞いた二、三の片言隻語から推察することが出来る。
『歌日記』の出たあとで父は当時中学生の私に「このぼたんは昔伯林で買ったのだが戦争の時片方なくしてしまった。とっておけ」といってそのかたわの扣鈕をくれた。歌の情も解さぬ少年の私はただ外国のものといううれしさに銀の星と金の三日月とをつないだ扣鈕を、これも父からもらった外国貨幣を入れてある小箱の中に入れた。私はまたある時祖母が私にいうのを聞いた。「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と。(『父親としての森鴎外』森於菟 筑摩書房)

「扣釦」の詩からすると、鴎外はドイツに帰された後の「エリス」については知る由も無かったのだろう。

【2010.11.19 Friday 21:40】 author : 杉篁庵主人
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山茶花・茶梅




山茶花が咲き、咲いたかと見ると散り始めている。
今朝は雨。露に濡れている山茶花は風情ある。

山茶花のしぐるる花のみな平ら 皆吉爽雨
雨の山茶花の散るでもなく 種田山頭火
山茶花のだらだらだらと雨零す 高澤良一
山茶花の散るからに 咲くからに ああ 伊丹三樹彦

さて、「さざんか」は「サンサカ・サンザカ」(山茶花)が転じたといわれる。「茶梅」の表記もある。中国での呼び名という。ヒメツバキの呼び名もある。
なお、「山茶」はツバキの漢名。ということで、ツバキは椿、山茶で、サザンカは山茶花、茶梅となんとも混乱するような表記ではある。なお中国では「椿」は日本とはまったく別の木を指すという!

菅茶山(かん ちゃざん(さざん)という江戸時代後期の儒学者・漢詩人がいるが、「秋日雑咏」(しゅうじつざつえい)の中の一首。

秋深園卉日凋衰 也喜清芳無歇時  
幽處誰傳小春信 茶梅已先菊花披

秋深く園卉(えんき)は日々に凋衰(ちょうすい)す
也(ま)た喜ぶ清芳(せいほう)の歇(や)む時無きを。
幽所誰か小春(しょうしゅん)の信を伝えて
茶梅(さばい)已(すで)に菊花に先だって披(ひら)く。
(秋が深まり庭の草花は日々しぼみ衰えていくが、
また清らかな香りが途絶えるときがないことを喜ぶ。
日かげのこの静かな場所に誰が小春のたよりを伝えたものか。
山茶花(さざんか)がすでに菊の花に先んじて花を開いている。)

  濡れそぼつ山茶花摘みし手をとれり

【2010.11.17 Wednesday 11:05】 author : 杉篁庵主人
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