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荷風・露伴の文学碑建立



 
京成八幡駅から山の手へ向い、街道からは奥まった緑の多い静かな住宅街の一角に白幡天神社があるが、その白幡天神社の東側鳥居を潜った左に荷風の碑が建立された。
その碑は、中央の荷風の自書名の右に
「松しける生垣つゞき花かをる 菅野はげにもうつくしき里」
と記され、
左に「断腸亭日乗」の一節が彫られている。
「白幡天神祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む 帰途り緑陰の石垣道を歩みつゝユーゴーの詩集を読む 砂道平にして人来らす 唯鳥語の欣々たるを聞くのみ 「断腸亭日乗」」。

裏には、「文豪の永井荷風は昭和二十一年から十二年間市川市菅野の地に晩年を過ごした。日々の記録を芸術に高めた大作「断腸亭日乗」には 荷風が白幡天神社のまわりの静かな環境のなかで読書に耽り ひとり暮らしの楽しさをかみしめている記述がある」と記されている。
短歌は、昭和二十一年四月二十二日、日記は同じ年の五月十一日に記されたもの。

神殿には、勝海舟が明治初めに揮毫した「白幡神社」の社額が飾られてる。

露伴の娘であり、その晩年を支えた幸田文は、作品「父」で、樹齢二百年余りの木々に囲まれて広々とした白幡天神社の境内の様子を、
「白幡神社の広場の入口に自動車がとまっている。いなかのお社さまはさすがに、ひろびろと境内を取って、樹齢二百年余りとおぼしい太い槙が何本も枝を張っていた。・中略・さあっと風が来、ぱらぱらと榎の枝から葉が離れ散った。」(幸田文『菅野の記』)と描いている。

白幡天神のHPはこちら

 嬉しげな囀りを聞く木陰かな


読売新聞 2010年11月29日 
ご近所さんだった露伴と荷風、足跡伝える文学碑…千葉・市川
境内に設置された永井荷風の文学碑 晩年を千葉県市川市で過ごした文豪、幸田露伴(1867〜1947年)と永井荷風(1879〜1959年)の文学碑が、同市菅野の白幡天神社境内に建てられ、28日、市民にお披露目された。
 露伴と荷風は終戦直後の1946年、偶然だが、いずれも同神社近くに移住。面識はなかったが、日記などから互いの存在は知っていたという。
 文学碑は、神社の氏子役員が「2人の住んだ足跡を伝えよう」と発案。露伴の碑は境内南側、荷風の碑は東側に建てられ、露伴の碑文は「幸田露伴文学之碑」、荷風の碑文には菅野の情景を詠んだ短歌と日記「断腸亭日乗」の一節を刻んでいる。
 鈴木啓輔宮司は「直接話したことのない2人だが、せめて境内で一緒になり、散策者を喜ばせてほしい」とあいさつ。「荷風のいた街」「幸田家のしつけ」などの著書がある橋本敏男・元読売新聞記者が、荷風について講演を行った。
(2010年11月29日  読売新聞)

毎日新聞 2010年12月6日 地方版
幸田露伴・永井荷風:市川・白幡天神社に文学碑を建立 氏子ら資金を拠出 /千葉
 ◇2人が住んだ歴史、後世に
 市川市菅野地区にかつて住んでいた小説家・幸田露伴(1867〜1947)と永井荷風(1879〜1959)を顕彰しようと、「白幡天神社」(同市菅野1)に二つの文学碑が建立された。文豪2人が同じ時期を偶然にも過ごした場所として光を当てることになり、文学ファンの関心を呼びそうだ。
 露伴は1946年から1年半、荷風は46年から13年間、市内に住んだ。しかし、お互いの存在は知っていたとみられるものの、交流はなかったとされる。荷風が記した日記「断腸亭日乗」には、神社をたびたび訪れたことや、露伴が亡くなった際には外で見送った記述もある。
 鈴木啓輔宮司(65)によると、「露伴はどこに住んでいたのか」など、文学ファンに尋ねられることがしばしばあるという。鈴木宮司自身、神社で休む晩年の荷風の姿をたびたび目にしており、その様子を説明することもあるそうだ。ただ、周辺には特に文学碑などもなく、氏子たちから昨年末、「2人の文豪が住んだ歴史を後世に伝えよう」との声があがり、資金を出し合って今年8月に完成させた。また、先月28日には同神社で氏子らがお披露目の式を開き、文芸評論家の樋口覚さんが、「永井荷風・幸田露伴 その思想と居場所について」と題して講演している。
 露伴の碑は境内南側に設けられ、背面に略歴がまとめられた。荷風の碑は境内東側に設置。菅野を読んだ短歌と日記の一部などが記された。鈴木宮司は「末永く愛される文学碑となればうれしい」と話している。【山縣章子】


 

【2010.12.13 Monday 11:08】 author : 杉篁庵主人
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