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憲法を考える

北軽井沢で見つけた大きな枝垂桜


ネット環境のないところに二週間ばかりいて、新聞もお店のをたまに拾い読むだけだった。
帰ってきて、社説にをざっと目を通していたが、憲法記念日の社説はさびしいもの。
まともに考えようとしいてるのは地方紙に多い。
沖縄の二紙と信濃毎日新聞の三回に亘っての社説を転載しておく。
最後に毎日新聞の「社説ウオッチング:憲法記念日 「9条改正」主張なし」を転載。(書こうかと思ったらまとめの記事があった)


沖縄タイムス社説(2008年5月3日朝刊)
[憲法を考える(上)]
9条を「国際公共財」に
 二国間同盟を維持する上で最も大切なのは「相互の信頼」だといわれる。信頼とは、してほしいと相手国が望んでいることをすることだ。
 「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(地上部隊の派遣)という米国の要求にこたえて小泉政権は、いち早くブッシュ政権支持を表明し、急ごしらえの法律に基づいて自衛隊をイラクに派遣した。
 だが、大量破壊兵器は発見されず、フセイン政権がアルカイダに協力したことを示す証拠も見つからなかった。中東を民主化するというもくろみも「アメリカ的価値の押し付け」だとイスラム世界の激しい反発を招いた。
 イラク攻撃は国連憲章違反の疑いが濃厚である。米国でも「誤った戦争」だとの評価が定着しつつある。問題は「毒を食らわば皿まで」の姿勢に終始する日本の外交・安全保障政策だ。
 イラク国内の戦闘地域と非戦闘地域の区別を問われ、小泉純一郎首相は「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と答えた。
 航空自衛隊によるイラクでの空輸活動は憲法九条に違反するとの名古屋高裁の判決に対し、田母神俊雄航空幕僚長はちゃかすように答えた。「私が(隊員の)心境を代弁すれば『そんなの関係ねえ』という状況だ」
 この発言からは憲法九九条の「憲法尊重擁護義務」を守ろうとする姿勢が全く感じられない。戦前の歴史をひもとくまでもなく、指揮官が平気でこのような物言いをし始めるのは危険である。ここに見られるのは憲法九条に対する根深いシニシズム(冷笑主義)だ。
 在日米軍はすでにして安保条約の枠を超えた活動をしている。事前協議制は空文化し、極東条項も、あってなきがごとき状態だ。憲法九条だけでなく安保条約さえも、現実との乖離がはなはだしい。
 米国が日本に求めているのは、日米同盟を米英同盟のような同盟関係に変えることである。もっと言えば、集団的自衛権が行使できるように日本の法制度を変えることだ。
 だが、想像してみよう。もし、九条がない状態でイラク戦争を迎えていたら、どうなっていたか。米国の国家戦略に従って海外に軍隊を派遣し共に血を流して戦う―そのような同盟関係を築くことがほんとうに望ましい日本の未来像だといえるのか。
 九条改正や同盟強化を言う前に、F15戦闘機の未明離陸をなんとかしてもらいたい。それが嘉手納基地周辺住民の心境だろう。
 沖縄戦から六十三年がたつというのに沖縄は今もって「戦後ゼロ年」(目取真俊さん)のような状況にある。米軍駐留を維持するための施策が社会構造までいびつにしてしまった。
 憲法前文と九条に盛り込まれた平和主義と国際協調主義は、戦争体験に深く根ざした条項であり、沖縄の歴史体験からしても、これを捨て去ることはできない。
 ただ、護憲という言葉に付着する古びたイメージを払拭するには、護憲自体の自己改革が必要である。九条を国際公共財として位置づけ、非軍事分野の役割を積極的に担っていくことが重要だ。


沖縄タイムス社説(2008年5月4日朝刊)
[憲法を考える(下)]
貧困と格差が尊厳奪う
 憲法は今、自分の無力を嘆き悲しんで泣いているのではないか。そう思わせるような暗たんとしたニュースがこの数年、目立って増えた。
 北九州市で二〇〇六年五月、独り暮らしの男性(56)が職を失って生活に窮し、電気、水道、ガスのライフラインを止められ、生活保護も受けられずに死んだ。
 同じ北九州市で〇七年七月、生活保護を受給していた独り暮らしの男性(52)が生活保護を「辞退」したあとしばらくして飢餓状態で死んだ。「オニギリ食べたい」という言葉を日記に書き残して。
 山形市で〇八年四月、五十八歳の無職の男性と八十七歳になる母親が死んだ。無理心中だとみられている。
 後期高齢者医療制度(長寿医療制度)がスタートしたことで男性は「母親の年金から保険料が天引きになって生活が大変」だと周囲に漏らしていたという。実は母親の保険料は激変緩和措置で九月までは年金から天引きされない。男性は母親が免除対象になっていたことを知らずに無理心中を図った可能性があるという。
 低所得者ほど実質的負担が高くなるという「負担の逆進性」が強まっている。
 県内で生活保護を受けている人は〇五年から三年連続で過去最多を記録した。
 国民健康保険料の長期滞納で保険証が使えなくなり、医療を受けたくても受けられない人たちが全国的に増えている。
 貧困と格差の広がりが社会全体をむしばみ、人間としての尊厳まで奪いつつある。
 憲法第二五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。生存権を保障したこの規定は今、かつてない深刻な試練に立たされている。
 〇六年四月、生活保護の老齢加算が廃止され、〇七年四月には母子世帯の母子加算も見直された。低所得者の生活費よりも高いとの理由で厚生労働省は生活保護費の引き下げを検討している。
 受給対象者の増加が国や地方自治体の財政を圧迫しているのは確かだ。だが、ない袖は振れないと保護水準を切り下げたり、生活保護を受けたくても受けられないケースが多発している現状は、生活に困っている人たちの「最後の命綱」を奪いかねない。
 労働、教育、医療などの分野で今、起きているのは「負の悪循環」というほかないような事態である。
 昔の「貧乏」と今の「貧困」は、どこかが違うような気がする。その違いをうまく言い表すことはできないが、昔の「貧乏」には「ぼろは着てても心は錦」のような未来への可能性と希望が満ちあふれていたのではないか。
 希望の持てない社会は、相互の紐帯が弱まり、不安定なバラバラの社会になる可能性がある。
 「すべて国民は、個人として尊重される」。前段で個人の尊重をうたった憲法第一三条は、後段で幸福追求に対する国民の権利について「国政の上で最大の尊重を必要とする」と規定している。



琉球新報社説 2008年5月3日
憲法記念日 今こそ理念に輝きを
 きょうは憲法記念日。1947年5月3日の施行から61年を迎えた。この間、憲法は日本の平和と国民の人権を守る砦(とりで)の役目を担ってきた。だが、いま日本は「違憲」の国になりつつある。憲法を取り巻く動きを検証した。
 戦前の大日本帝国(明治)憲法と、戦後の日本国憲法の大きな違いは主権在民。つまり、天皇主権から国民主権への転換だ。新憲法は天皇を国の「象徴」とし、「主権が国民に存する」と宣言した。
 戦前。国民は「天皇の赤子」だった。天皇のために国民は命を賭して国を守り、そのために多くの国民が戦争の犠牲になった。
司法判断無視の政府
 その反省から、憲法前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意」し、第9条は「戦争の放棄」「戦力の不保持」を明記した。
 しかし、現実は自衛隊という紛れもない「軍隊」を保持し、海外に派遣している。
 ことし4月17日、名古屋高裁はイラクに派遣された航空自衛隊の空輸活動が「他国の武力行使と一体化し、憲法9条に違反する」との判断を下した。
 だが、政府は「違憲」判断を事実上無視し、自衛隊の派遣を継続している。
 憲法は国の最高法規で「その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と、第98条は定めている。
 そして第99条は、大臣や国会議員、公務員らは「憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と明記している。
 法治国家のはずの日本で最高法規の憲法を守らず、従わず、尊重せず、「違憲」行為を重ねる政治が行われている。
 尊重どころか改憲論議も加速している。焦点は常に「9条」で、軍隊の保有が改憲派の主な狙いだ。
 政権与党の自民党は立党50周年を機に2005年11月に新憲法草案をまとめている。
 草案は憲法前文から「国家不戦」の決意を削除。「戦争の放棄」を「安全保障」に変更し、「自衛軍の保持」を明記。国内のみならず国際任務での自衛軍の活動を盛り込んでいる。
 安倍晋三内閣の下で、すでに憲法改正をにらんだ国民投票法を成立させている。
 自民党と連立を組む公明党は、9条を維持しながらも「新たな人権」を盛り込む「加憲」論に立つ。
 野党最大の民主党は改憲、護憲の両勢力が党内で拮抗(きっこう)する中で、自由闊達(かったつ)な憲法論議を是とする「論憲」「創憲」論を展開している。これも突き詰めると「改憲」の流れにある。
 「護憲」勢力の社民党や共産党は、平和憲法の趣旨の徹底を目指す「活憲」論で迎え撃つなど、攻防は水面下で激しさを増している。
護憲のうねりつくろう
 最近の映画「靖国 YASUKUNI」の上映をめぐる動きも憲法論議に発展した。
 文部科学省は国会議員らの要求で、同映画の試写会を行った。試写後、主要シーンの削除や上映禁止を求める動きが議員らから出た。
 憲法は言論の自由、出版など「表現の自由」(第21条)を保障し、検閲を禁じている。「靖国」をめぐる動きは事前検閲や表現の自由を侵害する「違憲」行為にも映る。
 沖縄の現状はどうか。戦後、沖縄が平和憲法の庇護(ひご)の下に入ったのは1972年の本土復帰後だ。
 それまでの米軍統治下の沖縄では国民主権はおろか「自治は神話」とまで言われ、基本的人権は保障されず、多発する米軍犯罪の被害に泣き、銃剣とブルドーザーで家や土地を奪われ、財産権を侵害され続けてきた。
 いま、沖縄は日本に復帰し平和憲法の下にある。それなのに「法の下の平等」に反する米軍基地の過重負担、深夜早朝の爆音被害、実弾演習被害、有害物質の流出や禁止兵器の使用、そして繰り返される米兵犯罪で「平和的生存権」が侵害され続けている。
 条文だけの憲法は役に立たない。尊重し、守り、守らせてこその立憲・法治国家である。
 人権や自治のない米軍統治下で平和憲法を希求し、本土復帰運動を展開した沖縄である。
 失われつつある平和憲法の理念を問い掛け、順守し、実効性を取り戻す運動を沖縄から始めたい。



信濃毎日新聞社説 5月2日(金)
憲法記念日(上) 九条は暮らしも支える
 61回目の憲法記念日がめぐってくる。これまでの数年間に比べれば、改正論議が落ち着きを見せている中での記念日だ。
 福田康夫首相の姿勢が影響している。「広く国民、与野党で議論が深められることを期待している」。改正について国会で問われると、そんなあいまいな答えでやり過ごしている。
 小泉純一郎元首相は「非戦闘地域」という奇妙な理屈を編み出し、戦闘の続くイラクに自衛隊を派遣して憲法の足元を掘り崩した。安倍晋三前首相は、憲法に立脚してきた戦後日本の歩みを「戦後レジーム(体制)」と呼び、そこからの「脱却」を訴えた。
<水面は穏やかでも>
 前任者2人に比べると福田首相は憲法問題から明らかに腰が引けている。内閣支持率が30%を割る現状では、憲法どころではない、というのが本音だろう。
 半面、改正論議は煮詰まった状態にあるのも事実だ。
 憲法とセットで定められた教育基本法は安倍政権の下で見直され、教育の目標に「わが国と郷土を愛する態度を養う」ことが盛り込まれた。改正の是非を問うための国民投票法は2年後、2010年に施行される。
 例えて言えば、湖の水面は穏やかでも、水位はかなり上がっている。首相が代わったり政界再編が起きたりすれば、水は一気に流れ出す可能性がある。
 そのときに備えるためにも、憲法のあり方について、いま、考えを深めたい。
 大事なのは、憲法を暮らしの視点からとらえ直すことだろう。
<高度成長の基礎に>
 元駐アフガニスタン大使、駒野欽一さんから聞いた話を紹介したい。日本政府は新憲法の制定を進めるアフガン政府に対し、法律の専門家を派遣して支援してきた。アフガンの人たちがいちばん聞きたがったのは、日本が経済大国への歩みを進むに当たり、平和憲法がどんなふうに役だったかの話だったという。
 戦後日本が経済建設にエネルギーを集中できたのは、軍備を切り詰めたことが大きかった。
 九条の歯止めがなければ、東西冷戦が厳しさを増す中で、日本は米国からより大きな軍事的役割を求められていたはずだ。韓国のように、ベトナム戦争を米軍と一緒に戦って死傷者を出していた可能性だって否定できない。日本企業のアジア進出にも警戒の目が向けられていたかもしれない。
 日本人が享受してきた安全で豊かな暮らしは多分に、憲法に支えられている。このことは繰り返し強調されてよい。
 防衛庁の制服組トップ、統合幕僚会議議長を務めた西元徹也さんは、九条が日本の安全保障政策の足かせになっていることを講演などで繰り返し訴えてきた。その西元さんも、日本が軍事的野心を持たないことを世界に向けて証明する上で、憲法が大きな役割を果たしてきたことは認める。
 憲法は平和を旨とする日本の基本政策の、いわば“保証書”にもなっている。
 「実質的に自衛隊は軍隊だろう」。小泉元首相は5年前、国会審議でさらりと言ってのけた。
 自衛隊は軍隊なのだろうか。確かに、装備を見れば軍隊に見えないこともない。予算は世界有数の額である。
 「陸海空軍その他の戦力」は持たない、という九条の規定から遠く隔たったところまで、自衛隊は来ているのは事実だ。
 半面、自衛隊は専守防衛政策の「たが」をはめられている。航空母艦、戦略爆撃機など、国土を遠く離れて攻撃できる兵器は持っていない。集団的自衛権はむろん行使できない。
 「特別裁判所は、これを設置することができない」。憲法はこんな言い方で、政府に対し、軍事専門の法廷(軍法会議)を設けることも禁じている。
 国防の義務規定、軍事機密の保護規定、徴兵制…。軍事システムを運用するこうした法制度を日本は持っていない。
 自衛隊と軍の間には今のところ無視しがたい溝がある。自衛隊は軍のように見えて、まだ軍になりきれていない。
<「自衛軍」ができたら>
 自民党の新憲法草案には「自衛軍」の創設がうたわれている。その方向で改憲が行われたら、社会の在り方も一変するだろう。
 軍事機密には特別の保護の網がかぶせられる。国会には秘密公聴会が設けられる。
 「自衛軍」の創設は、自衛隊の現状の追認にとどまるものでは決してない。日本は軍事的価値に重きを置かない社会であることをやめて、戦争ができる国になる。質的な転換である。
 平和で豊かな暮らしを守るためには、九条の縛りを緩めてはならない。自衛隊を「軍」にしてはならない。
   ◇  ◇  
 憲法について、「暮らし」の観点から3回続きで考える。


信濃毎日新聞社説 5月3日(土)
憲法記念日(中) 生存権を確かにしたい 
 人も社会も元気がない。明るい将来を見通すことも難しい。生きにくい世の中になったという切実な声があちこちから聞かれるようになった。
 働いても収入が低く、ぎりぎりの生活を強いられるワーキングプア(働く貧困層)や生活保護世帯が増えている。
 医療や福祉など、暮らしのさまざまな場面で社会的弱者へのしわ寄せが強まるばかりだ。そんな人たちを支えるはずのセーフティーネット(安全網)もほころびを見せ始めている。
<政治は暮らしに冷淡>
 憲法二五条。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。生存権の保障である。今の社会は生存権が急速に心もとない状況に追いやられている。
 政治は国民の悲痛な声に耳を傾けているだろうか。首をかしげざるを得ない。暮らしに思いを寄せる力が欠けている。
 「国が借金まみれになったのは税金の使い方を間違ったからでしょう。政治家や官僚が無駄遣いの責任を心から感じていれば、母子家庭など社会的弱者にしわ寄せはこないはず」
 北信地方で暮らしている30代の女性の言葉である。
 小さな工場でパートとして働いている。従業員の8割近くがパートと派遣だ。働き始めて10年近くになるが、正社員への道はない。新しい職を探しても書類ではじかれてしまうことが多い。
 年収は多いときで180万円ほど。仕事がなく、100万円ほどのときもあった。小学生の娘は病気がちで、医療費もかかる。毎月、クレジットカードでお金を借りて、生活費の穴埋めをしている。国民健康保険料を払うのがやっとで、国民年金の保険料を支払う余裕はまったくない。
<深刻化する格差>
 「その日を生きるので精いっぱい。憲法二五条なんて夢のような話」とつぶやいた。
 国税庁が昨年秋にまとめた民間給与の実態調査によると、2006年の年収が200万円を下回った人は21年ぶりに1000万人を超えた。02年は850万人余だったから、わずか4年間で20%も増えたことになる。
 100万の大台を突破した生活保護世帯も危機的だ。政府は、老齢加算と母子加算の廃止を決めた。さらに保護水準の引き下げにも手を付けかねない状況である。
 先進諸国の中では最も低い水準の最低賃金も大きな問題だ。大企業は潤い、中小企業は苦しいまま−。経済の格差がそのまま暮らしの格差となり、企業や社会の活力を失う結果を招いている。
 主な原因は小泉政権が進めた構造改革路線である。安倍政権も踏襲して傷口を広げた。暮らし重視を訴える福田政権も格差については無策に近い。
 競争と効率ばかりが重視された結果、痛みに耐えきれず、多くの人が脱落していった。その矛盾が格差という亀裂を生んだのだ。
 社会に広がったこの亀裂は、人と人とのつながりを分断し、孤立化させている。ネットカフェ難民や路上生活者が増えていることばかりでなく、9年連続で年間自殺者が3万人を超えていることがその深刻さを物語っている。
 ここで確認しておきたいことがある。生存権は、連合国軍総司令部(GHQ)ではなく、当時、貧困問題の解消に取り組んだ日本の国会議員や在野の研究者らの熱意と努力が実らせたということだ。忘れてはならない。
 敗戦後の社会とは違うけれど、時代が変わろうとも、生存権は守り通さなくてはならない。今、求められるのは、生存権を確かなものにすることである。そのためにはどうしたらいいか−。
<異議を申し立てよう>
 二五条第二項を思い起こしたい。国に対し、生存権の具体化について努力する義務を課している。政府、与党はそのことを肝に銘じるべきだ。
 そして、私たち国民は政府の怠慢に、さまざまな手段で異議を申し立てることを考えたい。
 近年、生活保護の老齢加算、母子加算の廃止や減額は、最低限度の生活を保障した憲法に違反するとして、取り消しを求める提訴が相次いでいる。食べて寝るだけが人間なのか、という重い問いを投げかけている。
 昨年の参院選でも、先日の衆院山口2区補選でも、与党が負けたのは、年金や新医療制度など生存権に直結する課題を政府、与党が軽視した結果である。
 暮らしを守るために国民は立ち上がり始めた。とはいっても、この動きは赤子のように、まだよちよち歩きの状態だ。
 生存権に魂を吹き込むには、他者の苦しみに共感する力が必要になる。無関心のままでは異議申し立ても力を発揮しない。共感を連帯へと育てられたら国を動かす大きな力になるだろう。
 生存権を守るため、国民の側から取り組みを強めていきたい。


信濃毎日新聞社説 5月4日(日)
憲法記念日(下) 表現の自由の曲がり角 
 自由にものが言いにくくなっているのではないか。このところ、そのように感じる出来事が相次いでいる。
 靖国神社を扱ったドキュメンタリー映画の一時上映中止。日教組の集会を予定したホテルの一方的な契約破棄。イラク派遣に抗議してビラ入れをした市民への有罪判決…。
 憲法二一条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。一連の“事件”は、いずれも「表現の自由」を、根元から揺るがすものばかりだ。
 何が壁になっているのか、どうすればいいのか。あらためて考えてみたい。
<国民の自主規制>
 表現の自由をめぐる最近の動きの特徴の一つは、国民の側の自主規制の傾向だ。
 例えば、李(リ)纓(イン)監督による映画「靖国 YASUKUNI」が、上映の危機に陥った問題である。一部政治団体の抗議などを警戒した東京都内の映画館を中心に、中止に踏み切る動きが広がった。
 最終的には各地で公開の運びとなったものの、一時は上映の日程が危ぶまれる事態に陥った。
 日教組の全体集会の会場となったグランドプリンスホテル新高輪(東京都)が、右翼団体の妨害行為などを理由に一方的に契約を破棄したケースと似ている。
 公権力が直接中止を働きかけたわけでもないのに、映画館やホテルが事なかれ主義に走った。
 経緯はどうであれ、「表現の自由」の基盤を国民の手で崩した意味は重い。戦前の言論統制から解放されて60年以上もたったというのに、先行きが危ぶまれる。毅然(きぜん)とした姿勢が求められる。
<警察の姿勢に危うさも>
 映画「靖国」については、背後に国会議員の動きがあったことも見逃せない。
 自民党議員の要請がきっかけとなり、国会議員を対象にした異例の試写会が行われた。議員は、映画の政治的な中立性に疑問を投げ掛け、映画が文化庁所管の日本芸術文化振興会から助成金を得ていることを問題にした。
 議員が税金などの使い道をチェックすることに異論はない。だが、表現や思想にかかわる文化事業の中身に踏み込むことには、慎重であるべきだ。表現活動を萎縮(いしゅく)させる恐れがあるからだ。道路財源の使い道とはわけが違うことを、あらためて確認しておきたい。
 表現の自由をめぐる最近の2つ目の特徴は、政治的な主張を書いたビラ配りなどに、警察の捜査の手が伸びていることだ。
 例えば、2004年に自衛隊のイラク派遣に反対するために自衛隊宿舎内に立ち入った市民団体のメンバーが、住居侵入容疑で逮捕・起訴された。一審は無罪となったものの、高裁、最高裁は有罪と判断している。
 ほかにも、同様のビラ配りなどによる逮捕が目立っている。「住居」に立ち入ったのは事実としても、窃盗などの犯罪が目的ではない。ビラを配るために入った結果である。
 これで逮捕となれば、政治的な活動が制限されるばかりか、市民の知る権利が侵害されかねない。捜査のあり方や司法判断に再考を求めたい。
 「表現の自由」を取り巻く状況が、情報社会が進むにつれて複雑になっている点にも、注意を払う必要がある。
 「表現の自由」は、国民が政治をチェックし、参加を果たしていく重要な“武器”である。そのためには、意見を自由に発信するだけでなく、必要な情報を手に入れなければならない。「表現の自由」と「知る権利」は表裏一体の関係にある。
<対話の回路を>
 マスコミは本来、国民の知る権利を代弁する役割を担っている。戦後の新聞・放送・出版は、国や自治体の問題点を国民に伝え、政治をチェックする機能を曲がりなりにも果たしてきた。
 ところが、近年になってマスコミの取材活動に対し、プライバシーの侵害だとして抗議の声をあげるケースが増えてきた。マスコミ=国民が、ともに権力に立ち向かう図式が崩れてきた、と見ることができる。
 国民の立場にどこまで思いを寄せ、利害を代弁できているか、あらためて振り返る必要性を、われわれ報道現場に働く者は痛感している。
 ただ、マスコミの取材活動が法律によって制限されるようなことがあってはまずい。そうなれば、国民の「知る権利」が著しく後退するからだ。
 先に述べたように、「表現の自由」は国民の自主的な規制の動きと、警察の取り締まりの双方から挟み撃ちに遭っている。ここにさらに、取材活動に足かせをはめられれば、国民が権力の動きに目を光らせることはますます難しくなるだろう。
 マスコミと国民の対話の回路をもっと太くしていきたい。「表現の自由」の将来がかかっている。




毎日新聞 2008年5月11日 東京朝刊
毎日新聞より
社説ウオッチング:憲法記念日 「9条改正」主張なし
3日の各紙社説見出し ◇「9条改正」主張なし−−各紙
 ◇生存権の侵害に警鐘−−毎日
 61回目の憲法記念日の3日、各紙は社説で一斉に憲法を取り上げた。昨年の60回目の記念日は「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍晋三首相が憲法改正を7月の参院選の争点にする、と意気込み、憲法改正の手続き法である国民投票法案が成立直前だったため、各社とも戦争放棄と軍隊不保持をうたった9条問題への言及が中心だったが、今年は福田康夫首相が改憲路線とは一線を画し、各社世論調査でも改憲反対が増えた中で、改憲を主張する読売、日経、産経が正面切っての9条改正論を打ち出さず、衆参ねじれ国会打開のための2院制改革などに焦点を移したのが特徴だ。一方、ワーキングプアや非正規労働者の激増という新しい貧困がクローズアップされる中、毎日、朝日、東京は憲法前文や25条が定める生存権をいかに生かすか、という新たな視点で憲法の血肉化を求めた。また、3紙は表現の自由を守る大切さを訴え、毎日は「ことなかれ」世論に警鐘を鳴らした。
 ◇2院制のあり方焦点
 94年に憲法改正試案を発表後、一貫して改憲を訴える読売は、昨年5月の国民投票法成立で衆参両院に設置された憲法審査会がまったく動いていない、と批判。2010年に憲法改正発議が可能になるが「これ以上、遅延させては、国会議員としての職務放棄に等しい」と断じた。また「ねじれ国会」打破のために2院制のあり方を「大いに論議してもらいたい」と注文した。しかし、あれほど熱心だった「9条改正」「安全保障」の文言は見当たらない。新聞社は重要な節目には通常2本で構成する社説を長文の1本社説にするが、この日の読売は2本社説で、風向きの変化を印象付けた。
 日経も「ねじれ国会の迷走を貴重な教訓」に衆院再可決の要件を3分の2から過半数に緩和する59条改正を改めて主張。1本社説の大半を2院制改革論にあてた。
 ◇産経「9条解釈変更を」
 産経は4月に中東イエメン沖で日本郵船の大型タンカーが海賊に襲われ被弾したのに、周辺海域で多国籍軍への給油活動を行っていた海上自衛隊の補給艦と護衛艦が憲法の制約で撃退できなかったことを取り上げ、「憲法守って国滅ぶである」「海賊も撃退できない憲法解釈がいかにおかしなものか」と悲憤慷慨(こうがい)したが、解釈改憲で対応可能とし、正面切っては9条改正を主張しなかった。
 読売、産経の社説に世論の変化の影響が読み取れる。各社世論調査を見てみよう。読売調査(3月15、16日)は改憲賛成が42・5%、改正反対が43・1%と93年以来では初めて非改正派が改正派を上回った。日経調査(4月18〜20日)は「改正すべき」が48%、「現在のままでよい」43%だが、前回(07年4月)比で改正支持は3ポイント低下、現状維持支持は8ポイント上昇した。朝日も改憲派が07年の58%から56%へ、護憲派が27%から31%。同様の傾向を見せた。特徴的なのは朝日調査で9条改正反対が昨年の49%から66%に激増し、改正賛成が33%から23%に減ったことだ。毎日は「あれほど盛んだった改憲論議が、今年はすっかりカゲをひそめてしまった。国民の関心は憲法よりも、暮らしに向かっている」と解説する。
 毎日、朝日、東京は生存権にスポットライトを当てた。
 毎日はイラクの航空自衛隊の活動に対する名古屋高裁の違憲判決が憲法前文の「平和のうちに生存する権利」を法的権利と認めたことに触れ「ダイナミックにとらえ直された『生存権』。その視点から現状を見れば、違憲状態が疑われることばかりではないか」と指摘。後期高齢者医療制度、ワーキングプア、消えた年金などを例示して「『生存権』の侵害に監視を強める地道な努力」を訴えた。
 東京は憲法25条が「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」とあるのに、生活保護辞退の強制などが相次ぐ現状を「弱者に対する視線の変化」として「行き過ぎた市場主義、能力主義が『富める者はますます富み、貧しい者はなかなか浮かび上がれない』社会を到来させ」たと分析した。
 朝日も雇用、社会保険、公的扶助の3段階のセーフティーネットの脆弱(ぜいじゃく)さを問題にした。年収200万円に満たずワーキングプアとされる労働者が1000万人を超え、非正規労働者が働く人の3分の1を占める中、「憲法と現実との間にできてしまった深い溝」を埋める必要性を訴えた。
 ◇表現の自由の危機
 右翼のいやがらせへの懸念を理由に、裁判所決定を無視し、日教組の集会を拒んだ東京のホテル。国会議員の介入を機に映画館の上映中止が相次いだ映画「靖国」。毎日は「『面倒は避けたい』と思うのは人情だ。しかし、このとめどもない『ことなかれ』の連鎖はいったいどうしたことか。意識して抵抗しないと基本的人権は守れない。私たちの現状は、やや無自覚に過ぎるように見える」と、集会の自由、表現の自由が脅かされている問題を「『ことなかれ』に決別を」のメーン見出しで取り上げた。【紙面研究本部・長田達治】毎日新聞 2008年5月11日 東京朝刊

【2008.05.13 Tuesday 10:00】 author : 杉篁庵主人
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