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大学入試センターの漢文
 あやめヶ原別荘地公式ブログより


「臥薪嘗胆(ガシンショウタン)」 と言う四字熟語がある。
将来の成功を期して苦労に耐えることをいう。薪の上に寝て苦いきもをなめる意。▽「臥」はふし寝る意。「薪」はたきぎ。「嘗」はなめること。「胆」は苦いきも。もとは敗戦の恥をすすぎ仇あだを討とうと、労苦を自身に課して苦労を重ねること。(goo辞典)


春秋時代、呉と越が互いに争っていたときのこと。
呉王闔閭は越に討たれ、死の間際に「汝は勾践が父を殺したのを忘れるのか」と尋ねると、 子の夫差は「忘れません」と答えて、毎日薪の上に臥して(臥薪)父の言葉を忘れないようにし、国力を高めて2年後に越を討ち、越王勾践を投降させた。
一方、会稽山で夫差に敗れた勾践は、呉王の臣妾となるという講和をして命を助けられたが、この屈辱を忘れぬよう苦い胆を寝所に掛けておき、寝起きのたびに苦い肝を嘗め(嘗胆)て密かに復讐を誓い、21年後に呉を攻め、呉を滅亡させた。


西施(セイシ)は、「奥の細道」の中にある「象潟や雨に西施がねぶの花」の芭蕉の句で知られているが、越の絶世の美女で、呉王夫差を惑わせるために、越王勾践が西施を献じ、夫差はこれを愛して国を滅ぼしたといわれている。〔西施は『西施捧心』顰に倣う(ひそみにならう)の慣用句の四字熟語にもなっている。(西施が病気になり、病む胸を手で押さえ、眉まゆをひそめて歩いていた。その姿の美しさに人々が見とれたのを見て、村の醜い女が自分も同じようにすれば美しく見えるかと思って、顔をしかめて歩いたら人々は皆逃げたという故事)〕


さて、今年の大学入試センターの国語・漢文の問題は、侯方域の壮悔堂文集からで、この春秋時代の女性・西施の故事を題材にして、為政者が安易に軍事力を行使すると国を滅ぼす結果になることを論じた文章であった。


「西施非能亡呉也。(西施能く呉を亡ぼすにあらざるなり)」と説き起こし、俗説では、美女にたぶらかされて呉が滅んだといわれるが、それは間違いで、実際には呉王夫差の戦争拡大路線(他国に遠征し自国の危機に気づかなかったこと)が主因であろう、ことわざにも、「佳兵者自焚(よい武器は自分を傷つける)」・「攻遠者遺近(遠きを攻めるものは近くを忘れる)」というではないか、と説いている文章である。昨今いろいろ当てはまるような気もする。


その問題文。
西施非能亡呉也。
而後世以亡国之罪帰之西施、過矣。使呉王不信宰嚭殺伍胥内修国政、外備敵人、西施一嬪嬙耳、何能為。当時以句踐之堅忍、種蠡之陰計、臥薪嘗胆、日伺其後。而乃遠出数千里、争長黄池之間、搆釁艾陵上、窮師黷武、殆無寧歳。越人乗其空虚而傾其巣穴。此即無西施、豈有不亡者哉。
吾観呉之亡也、与秦苻堅相類。二君荒淫楊澄固不可同年而秦之亡以伐晋致潰、呉之亡以越境而内救不及。其轍一也。然後知佳兵者自焚而攻遠者遺近、元亀格言必不可易也。



西施は能(よ)く呉を亡ぼすに非(あら)ざるなり。而(しか)るに後世 亡国の罪を以て之を西施に帰するは、過(あやま)てり。
使(も)し呉王宰嚭(サイヒ)を信じて伍胥(ゴショ)を殺さず、内は国政を修め、外は敵人に備へば、西施は一嬪嬙(ヒンショウ)のみなれば、何をか能(よ)く為さん。当時句踐(コウセン)の堅忍、種(ショウ)・蠡(レイ)の陰計を以て、臥薪嘗胆し、日々に其の後を伺う。而(しか)るに乃(すなわ)ち遠く数千里を出で、長を黄池の間に争い、釁(キン)を艾陵(ガイリョウ)の上に構へ、師を窮(きわ)め武を黷(けが)し、殆(ほとん)ど寧歳(ネイサイ)無し。越人其の空虚に乗じて其の巣穴を傾く。此れ即(たと)ひ西施無くとも、豈に亡びざる者有らんや。
吾 呉の亡ぶるを観(み)るや、秦の苻堅(フケン)と相ひ類す。二君の荒淫と楊世箸蓮固より年を同じくして語る可からず。而(しか)れども秦の亡ぶるは晋を伐ち潰(つい)ゆるを致すを以てし、呉の亡ぶるは境を越えて内救及ばざるを以てす。其の轍(テツ)は一(イツ)なり。然る後に、「佳兵は自(みづか)ら焚(や)きて」「遠きを攻むる者は近を遺(わす)る」、元亀(グヱンクヰ)格言の必ず易(か)ふ可からざるを知るなり。


「中国的こころ」というサイトの「列伝」には、
越王句踐=勾践(コウセン)、種(ショウ)、呉王夫差、とそれぞれ解説がある。
以下は、そこからの伯嚭・伍子胥の項の転載。
伯嚭(ハクヒ)【宰相】
楚の臣、呉の宰相。伯州犂の孫。伯州黎の子。〜B.C.473。
B.C.541伯州黎が楚霊王に殺されたので、伯嚭は呉に亡命して復讐を図った。
B.C.513伍子胥とともに楚を討ち、舒を落とし、 呉の叛将の掩余と燭庸を捕らえる。
B.C.506呉王闔閭に従い楚を討ち、復讐を果たす。
B.C.496夫差が立つと、太宰(宰相)となる。
B.C.494呉は越王勾践を会稽に追い詰めた。伯嚭は勾践の臣種から美女と宝物を送られたため、 彼を夫差に謁見させ「越はすでに屈服し、臣従しております。お許しなさるのが国家の利益でございます」と言った。ついに夫差は越を許した。
伯嚭は伍子胥と越の問題について争論した。
B.C.485そのため伯嚭は伍子胥を讒言して「伍員は表面こそ忠実そうですが、実際は残忍な男です。かつて自分の父兄をさえ顧みなかったほどですから、 どうして王を顧みることができましょう。さきの斉の戦勝を員は恨んでおります。王には用心なさって下さい。員は必ず乱を起こしましょう」と言った。
夫差ははじめこれを信じず、伍子胥を斉に使いさせた。伍子胥はわが子を斉の大夫鮑牧に委託した。 夫差は大いに怒り「伍員はやはりわしを欺いた。謀反に役立てようとするのだ」と言い、伍子胥に属鏤の剣を賜い自殺させた。
B.C.473呉が越に滅ぼされたとき、伯嚭は不忠の臣であるとして誅殺される。

伍子胥(ゴシショ)【宰相】
楚の臣。呉の宰相。名は員、字は子胥。伍奢の子。伍挙の子孫。〜B.C.485。
楚の人。伍挙は楚荘王に仕え、名声があったので、その子孫も楚では有名であった。
B.C.522春、伍奢が費無忌の讒言を受けて捕えられた。 楚平王の使者がやって来て兄の伍尚とともに召して「来なさい。わしはおまえたちの父親を許すつもりだ」と告げた。 伍子胥は「楚がわれら兄弟を召し寄せるのはわが父を生かそうとするのではありません。二人が行って殺されるより、他国に逃れ、その力を借りて父の恥をすすぐほうがましです」と言った。 しかし伍尚は「父が許されると聞いて行かないのは不孝である。父を殺されて報復しないのは無策である。能力をはかって事をするのは知である。 わたしの知恵はお前には及ばない。お前なら敵討ができるであろう。おまえは去れ。わたしは死地に赴く」と言い、ひとりで父のもとに行った。 伍子胥は矢をつがえて使者に「もし父に罪があったとしても、どうしてその子まで呼び出す必要があろう」と言い、 これを射ようとしたので使者は急いで去った。
伍子胥は太子建が宋にいると聞いて、宋に赴いて太子建に従った。これを聞いた伍奢は「胥が逃げたとあらば、楚国は危ないことだ」と言い、 伍尚とともに殺された。
伍子胥は申包胥と交遊していたが、申包胥に「私はいつかかならず楚を顚覆させてやる」と言うと、 申包胥は「私はかならず楚を存続してみせる」と言った。
B.C.522宋で華定・華亥らの乱があったので王子建とともに鄭に逃れた。王子建は晋と謀って鄭を滅ぼそうとしたが、発覚して殺された。 伍子胥は王子建の子勝とともに呉に出奔した。 伍子胥は楚の国境の昭関で楚の役人に捕らえられそうになり、ついに公子勝と離れ、単身徒歩で逃げた。途中で病気になったり、乞食をしながらようやく呉に着いた。
B.C.520呉王僚が戦を好んだので、伍子胥は謁見することができ、楚を討つのが得であると進言したが、 公子光に「伍子胥は自分のために仇を報じたいと思っているだけだ」と反対された。伍子胥は「彼はよからぬことを起こそうとしている。 しばらく彼のために勇士を探して、わたしは時節を待とうとしよう」と言い、専諸という勇士を光に引き合わせた。そのため伍子胥は公子光の賓客となった。
そして自らは勝と共に身を退いて野に耕し、専諸が事を成就するのを待った。
B.C.516楚平王が没した。呉は楚を討ったが、呉軍は背後を断たれ、帰国できなくなった。
B.C.515光は国内が手薄になったことに乗じて、専諸に命じて僚を殺させて自立した。
闔閭(公子光)は伍子胥を召して行人(宰相)とし、共に国事をはかった。伍子胥は申に封地を受けた。
B.C.510楚昭王は子常を将軍として呉を討ったので、伍子胥はこれを迎え撃ち、 予章で大いにこれを破り、楚の居巣を攻略した。
B.C.506闔閭は伍子胥と孫武に「先年、あなたたちはまだ郢に侵入の時期ではないと言ったが、いまはどうか」と問うた。二人は 「楚将囊瓦(子常)が貪欲なため、唐・蔡二国は楚を恨んでいます。まず唐・蔡二国を味方に引き入れるようになさいませ。 そうすればよろしゅうございましょう」と答えた。
闔閭はこれを聴き入れ、全軍を挙げて唐・蔡とともに楚を討ち、漢水をはさんで楚軍と対峙した。
ここで呉王の弟夫概が私兵五千を率いて子常を討った。子常は敗走したため、呉軍は勝ちに乗じて前進し、五戦五勝し、 ついに楚の国都郢に迫った。己卯の日、昭王は出奔し、翌庚申の日、闔閭は郢に入城した。伍子胥は昭王がすでに出奔していたので、 かわりに父兄の仇である楚平王の墓を暴き屍に300回鞭を打って敵に報いたのであった。
山中に逃れていた申包胥は人づてに「その復讐の仕方はひどいではないか。かつて平王の臣で北面して仕えた身であったのに」と言った。伍子胥は「わが素志を遂げるのに、 日は暮れて道が遠かった。だから、うろたえ急ぎ、道理に従って行うことができなかった」と答えた。
B.C.496闔閭が越との戦いで没すると子の夫差を補佐する。
B.C.494越を討ち、越王勾践を会稽山に囲んだ。勾践が降伏を請い、呉王夫差はこれを容れようとした。伍子胥は夫差に 「いけません。呉と越とは仇敵として戦をしてきた国です。共存はありえません。また北方の中華の国に勝っても、わが国はその地に住めませんが、 越の国には住めますし、その舟にも乗れます。その利益を失ってはなりません。天が越を呉に賜うたのであります。越をお許しなさいませぬように」 と言ったが聴き入れられなかった。 大夫伯嚭が勾践を許すよう進言したので「今にして越を滅ぼさなくては、のちのちかならず後悔なされましょう。勾践は賢君であり、 種と范蠡は良臣であります。 帰国の後は、乱を起こすでしょう」と諌めたが、夫差はついに越を許した。
B.C.489夫差は斉を討とうとした。伍子胥は「勾践は食事の肉を一皿として、人民と苦楽を共にしているということですが、この人が死ななければ、 かならずわが国の禍となりましょう。呉にとって越があるのは腹心に病があるようなものです。斉など呉にとって皮膚のかさぶたにすぎません。願わくは、 王には斉を棄て置いて、越の征伐を先になさいますように」と諫言したが聴き入れられなかった。
夫差は斉を討ち、これを艾陵で破った。王は伍子胥の前言を責めたが、伍子胥は「王よ、お喜びになってはなりません」と言ったので、夫差は怒った。 伍子胥は自殺しようとしたが夫差が止めたのでやめた。しかしこれ以後、伍子胥は夫差に疎んじられるようになった。
越が呉に粟を借りたいと申し出てきた。伍子胥は「与えてはなりません」と諌めたが、夫差はついに与えた。伍子胥は「王はわたしの諫言をお聴き入れになりませんが、 三年もすれば呉は廃墟になりましょう」と言った。
太宰伯嚭としばしば越の問題について争論した。そのため伯嚭は伍子胥を讒言して「伍員は表面こそ忠実そうですが、実際は残忍な男です。 かつて自分の父兄をさえ顧みなかったほどですから、どうして王を顧みることができましょう。さきの斉の戦勝を員は恨んでおります。王には用心なさって下さい。 員は必ず乱を起こしましょう」と言った。
B.C.485夫差ははじめこれを信じず、伍子胥を斉に使いさせた。伍子胥は自分の子に「わしはたびたび王を諌めたが、聴かれなかった。 わしが呉の滅びるのを見るのはやむを得ぬとしても、おまえが呉に殉ずるのは無駄なことである」と言い、 わが子を斉の大夫鮑牧に委託した。夫差は大いに怒り「伍員はやはりわしを欺いた。謀反に役立てようとするのだ」と言い、 伍子胥に属鏤の剣を賜い自刎するようすすめた。
伍子胥は大笑して言った「わしはおまえの父を覇者にした。わしはまたおまえを立てて王とした。そのときおまえは呉の国を分けて半分をわしにくれようとさえしたが、 わしが受けなかっただけのことだ。しかるに今、讒言を真に受けて、わしに死ねと言う。嗚呼、嗚呼、わしが死ねば、おまえは一人ではとても立ってゆけまい」
そして使者に向かい「かならず我が墓に梓を植えよ。呉王の棺にするためである。わが眼をえぐって呉の東門に置け。その眼で越兵の入城するのを見るためである」 と言って自殺した。
夫差はこれを聞いて大いに怒り、伍子胥の屍を鴟夷(酒の皮袋)に入れて銭塘江に浮かべた。呉人はこれを憐れんで、祠を江のほとりに立て、名づけて胥山と言った。
後に伍子胥の予言どおり越は呉を滅ぼした。夫差は「伍子胥にあわせる顔がない」として顔を布で覆って自刎したという。



史記の伍子胥列伝の「乃告其舎人曰、『必樹吾墓上以梓、令可以為器、而抉吾眼縣呉東門之上、以観越寇之入滅呉也。』乃自剄死。」 は、なかなかに印象深い話であった。

【2009.01.24 Saturday 10:45】 author : 杉篁庵主人
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