「さんこうあんにちじょう」は、HP「杉篁庵」(sankouan)の1頁です。
主にその日の庭の花の写真を掲載しています。
  
<< 3月までに40万人失業 | main | 「改革」の「御旗」で何をしている・かんぽの宿 >>
老にして学べば死して朽ちず



桑田の早大合格を話題にした「よみうり寸評」(1月29日夕刊)に「少くして学べば壮にして為すことあり。壮にして学べば老いて衰えず。老にして学べば死して朽ちず。」という江戸後期の儒学者・佐藤一斎(1772〜1859)の語録「言志晩録」第60条の引用があった。
朱子の『近思録』の「学ばざれば、則ち老いて衰(おとろ)う(不学便老而衰)」を元にしたものといわれる。
この「三学戒」は西郷隆盛が座右の書としたといわれるが、小泉も教育改革関連三法案の審議の衆議院本会議で生涯学習を論じる中、好きな言葉と引用していた。
「朽ちず」の意味をどうとるのかがなかなか面白いところ。
「朽ちる」の意味に「むなしく人生を終える」とあるから、人生を虚しく終えたことにならないの意であろうか。
友人と呑んだ時、呆けると煩悩だけが目に付くという話が出たが、人生の終わり方朽ち方はなかなかに難しい。


さて、この佐藤一斎の語録「言志耋録」の第143条には「富を欲するの心は即ち貧なり 貧に安ずるの心は即ち富なり」の句がある。


徒然草にはこんなのもある。


徒然草の第十八段。
原文
人は、己をつゞまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世を貪(むさぼ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。
唐土に許由(きょゆう)といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり。
唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記し止めて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。


第18段の口語訳。 
人は質素に生き、贅沢を避け、財を持たず、世俗的な欲望をむさぼらないことが、たいそうすばらしいのである。昔から賢き人が富を持つことはまれである。
唐の許由(きょゆう)といった人は、いっさい身つける貯えもなく、水すらも手のひらで飲んでいたが、それを見た人が瓢箪(ひょうたん)を与えたのだが、ある時、それを木の枝に掛けていたところ、風に吹かれて音を立てたのを、「うるさい」と言って捨ててしまった。そしてまた手ですくって水を飲んだという。余計なものがなくなって、どれほど心のうちがさっぱりしたことだろう。
孫晨(そんしん)は、冬の冴える月のもとに布団なく、一束の藁があったが、夜にはそれに寝て、朝にはしまったという。
唐の国の人々はこれらを素晴らしいことだと思うからこそ書き残して、世に伝えたのだろうが、我が国の人々はこういった話を語りも伝えもしないだろう。


ここに出てくる許由は芭蕉の「野ざらし紀行」の吉野山の段には、
(原文)西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計分け入ほど、柴人の通ふ道のみわづかに有て、嶮しき谷を隔てたる、いとたふとし。彼とくとくの清水は昔に変はらずと見えて、今もとくとくと雫落ちける。
  露とくとく試みに浮世すすがばや
もしこれ扶桑に伯夷(はくい)あらば、必ず口をすすがん。もし是れ許由に告げば、耳を洗はむ。

(口語訳)西行上人の草の庵の跡は、奥の院から右の方に二町ばかり分け入ったところに、柴刈りの人が通る道だけが、かろうじて有り、険しい谷を隔てて聳える山の様子は、大変尊いものである。
かのとくとくの清水は、昔と変わらないと見えて、今もとくとくと雫が落ちている。
  「とくとくの泉が昔と変わらずに雫を落とし続けている。ためしにこの清水で浮世のけがれをすすいでみたいものだ」
もし、わが国に伯夷がいたら、清い水なのだから、必ずや口に含みすすいだろうし、許由に教えたなら、きっとこの水で耳を洗い清めたことだろう。


この「耳を洗う、耳を滌(すす)ぐ」は、故事成語で、「世俗の、汚れたことを聞いた耳を洗い清める。世俗の栄達にとらわれず、高潔でいることの喩え」である。「史記−伯夷伝・史記正義」中の「皇甫謐高士伝」によれば、許由は中国、古伝説上の隠者で、字(あざな)は武仲といい、聖帝尭(ぎよう)が自分に天下を譲るという話を聞き、不本意なことを聞いて耳がけがれたといって潁川(えいせん)の水で耳を洗い、箕山(きざん)に隠れたと記されている。節義を曲げなかった高潔の士として知られる。 
また、同様の四字熟語に「許由巣父(きょゆうそうほ) 」というのがある。
耳がけがれたといって潁川(えいせん)の水で耳を洗う許由を見て、やはり尭帝から天下を譲ろうと言われた高士の巣父は、そのような汚れた水を牛に飲ませることはできないとして、牛を引いて帰っていった、という故事を言い、栄貴を忌み嫌うことのたとえである。また、その故事は中国でも日本でもよく画材になっていてその画題でもある。例えば狩野永徳画の許由巣父

(なお、伯夷は、周の武王が殷を討つという不義を諌め、それが容れられなかったことから周の粟を食するのを潔しとせず、首陽山に隠れて蕨で飢えをしのいだが、終には餓死したとされる。孫晨は貧しくむしろを織つて暮らしていた、後栄達し京兆の功曹となる。)


授業ならここから、「流石(さすが)」の読みと、負け惜しみの「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」と孫楚(そんそ)が言い訳で許巣伝説を暗示していること、そして夏目漱石へと話が展開するのだが、それはここでは外れていくばかり。


許由は潁水の辺に居たことから「潁水隱士(えいすゐいんし)」という。
これほどの高潔にはほど遠いが、理想の生き方として、これに因んで号を考えてみた、これからは、杉篁庵潁斎(さんこうあんえいさい)と名乗ることにしようかなどと。


史記會注考證卷六十一
伯夷列傳第一   史記六十一
【本文】而説者曰。堯讓天下於許由。許由不受。恥之逃隱。
 【正義】皇甫謐高士傳云、許由字武仲、堯聞致天下而讓焉、乃退而遁於中嶽、潁水之陽箕山之下隱、堯又召爲九州長、由不欲聞之、洗耳於潁水濱、時有巣父、牽犢欲飮之、見由洗耳、問其故、對曰、堯欲召我爲九州長、惡聞其聲、是故洗耳。巣父曰、子若處高岸深谷、人道不通、誰能見子、子故浮游、欲聞求其名譽、汚吾犢口、牽犢上流飮之、許由歿、葬此山、亦名許由山、在洛州陽城縣南十三里、
 【考證】莊子讓王篇云、堯以天下讓許由、許由不受、又云、許由娯於潁陽、又見於逍遙游篇、陳霆曰、堯讓天下於許由、由非山林逸士也、左傳云、許、太岳之後、太岳意由耳、古者申呂許甫、皆四岳之後、堯典云、咨四岳、朕在位七十載、汝能庸命、遜朕位、許由之擧、或即此也、若飮牛棄瓢之説、或由不敢當其讓、遂逃避于野、如益避啓于箕山之類、後人不知、謂堯以天下讓一山野之人、甚可駭也、愚按、堯讓許由、莊周言之、而經無所見、其事有無未可知、史公既疑之、陳氏之説、亦無確證、姑記資于博聞、



【2009.01.30 Friday 11:08】 author : 杉篁庵主人
| 私事雑感 | comments(0) | - | - | - |
この記事に関するコメント
コメントする